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天才てれびくんhello,が好きです。辿り着いてくれた茶の間戦士にふらっと読んでもらえたら。

天才てれびくんhello,「また明日」歌詞解釈

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あっという間に過ぎていく
夕暮れ時
こどもの時間
 
 
 

 

 

 

また明日  作詞・作曲:n-buna

春の終わりは今日も夕立

明日は晴れたらいいのにね

雲が流れたあとのあぜ道

夏の匂いがしていました

 

もう蝉が泣いてるんだね

そろそろ時間だね

 

夕焼け小焼け、今日は何処へ行こうか

口ずさむ僕らのまま大人になりたいのさ

茜色の空を見て誰かがこう言うのさ

また明日だね

 

目蓋を閉じて眠ったあとに

夢を見るのは何でですか?

大人になった後も僕らが

夢を見ていたらいいのにね

 

もう雨が止んでるんだね

そろそろ時間だね

 

夕焼け小焼け、今日は何をしようか

口ずさむ僕らはまだ夢の中がいいのさ

雨上がりの空を見て誰かがこう言うのさ

ほら綺麗だね

 

もう夕陽が沈んだね

そろそろ時間だね

 

夕焼け小焼け、明日は何処へ行こうか

口ずさむ僕らのまま大人になりたいのさ

雨上がりの空を見て誰かがこう言うのさ

また明日だね

 

 

 

めぐる季節はあどけなく

春の終わりは今日も夕立

明日は晴れたらいいのにね

 

季節は「春の終わり」。

「春」=青春、思春期など、子どもでいられる時間のメタファーでしょう。

そんな「春」の「終わり」は、子どもと大人の狭間の時間と解釈できます。

もう子どもではないけど、まだ大人でもない。

早く大人になりたいけど、子どものままでもいたい。

子どもと大人の境界線を引ききれない不安定な時期ですね。

 

また、「今日も夕立」なので、何日も夕立が降り続いていることがわかります。 

夕立は夏の印象が強いですが、春にも降るんですね。春夕立という言葉があるそうです。夏ほど激しくないけれど、生温くてじめついた感じでしょうか。

「春の終わり」に降り続いている「夕立」には、 思春期特有の漠然とした閉塞感や、なんとなく晴々としない気持ち、揺れ動く不安定な感情が織り込まれているように感じます。

 

 

 

蝉の声、草のにおい、飛行機雲

雲が流れたあとのあぜ道

夏の匂いがしていました

 

夕立雲が流れていって、ようやく夕立が降り止みました。

雨で瑞々しく濡れたあぜ道を歩いていきます。

「夏の匂い」は、雨上がりの土の香りや、あぜ道に生えている草のむっとした匂いのことでしょうか。

まわりの景色が次第に夏めいてきます。

 

では、この「夏」は何を意味しているのでしょうか。

「夏」は、春が終わったあとにやってくるもの。夕立が去ったあとに訪れるものです。

「春」が「子どもでいられる時間」を表しているなら、「夏」は「大人にならなくてはいけない時間」を意味していると解釈できます。

春から夏へと季節が移ろい、だんだんと大人へ近づいていることを予感させる歌詞です。

 

 

 

もう蝉が泣いてるんだね

そろそろ時間だね

 

蝉の声って、ふとした瞬間に耳に入ってきて「ああ、もう夏だなあ」と感じさせるものですよね。

そんな蝉の泣き声を聞いたあとの「そろそろ時間だね」は、「そろそろ夏がやってくるね」というつぶやきでしょうか。

「夏」=大人にならなくてはいけない時間、という解釈を当てはめると、「もうすぐ大人になるんだね」と語りかけているようにも聞こえます。

 

 

 

茜雲を超えて

夕焼け小焼け、今日は何処へ行こうか

口ずさむ僕らのまま大人になりたいのさ

茜色の空を見て誰かがこう言うのさ

また明日だね

 

夕立雲が流れ去った空が茜色に染まっています。

しばらく夕立が降り続いていたので、「僕ら」にとってはひさびさの「夕焼け」でしょう。

子どもと大人の狭間にいる「僕ら」と、昼から夜へと移り変わっていく夕暮れ時。

揺れ動く不安定さの中でしか見えない輝き、そして大人に一歩近づいたことの象徴が、「夕焼け」であり「茜色の空」なのではないでしょうか。

 

 

 

Let me dream

目蓋を閉じて眠ったあとに

夢を見るのは何でですか?

大人になった後も僕らが

夢を見ていたらいいのにね

 

日が落ちてすっかり夜になりました。

曲の中では、このような季節・時刻の変化が生まれています。

  • 春→春の終わり→夏
  • 昼→夕暮れ時→夜

ここで、季節・時刻・時間の関係性について考えてみましょう。

 

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昼は「春」と同じく、子どもでいられる時間を意味する言葉。

夕暮れ時は「春の終わり」と相関して、子どもと大人の狭間の時間の象徴。

すると夜は「夏」のように、大人にならなくてはいけない時間、もしくは大人だけが過ごせる時間と解釈できます。

 

また、二番は「夢」という言葉が鍵になっています。

  • 夜眠ったあとに見る、子どものときの「夢」
  • 大人になった後も見続けていたい「夢」

単線的ですが、二つの「夢」はどちらも大人への憧れ、理想、希望のメタファーでしょう。

夜は大人だけが過ごせる時間なので、まだ子どもである「僕ら」は眠らないといけません。夢の中で、大人になることへの期待に胸を膨らませているのでしょう。「ハローハロー」の「大人になる日を胸に描きながら」とも共通していますね。

 

「大人になったあとも僕らが/夢を見ていたらいいのにね」は、もし「僕ら」が大人になっても、子どもの頃に抱いていたあの憧れを忘れないでいたい、という感じでしょうか。

 

ただ、「眠ったあと」「大人になった」と表記が異なっているのにひっかかりを感じます。「夢」を軸とした、子どもと大人の対比表現でしょうか。

あるいは、二つの「夢」はそれぞれ別の意味合いの言葉で、「アト」の表記を変えることでニュアンスのちがいを引き立てているのでしょうか。もしかしたらもしかするかもしれません。この辺りはもっと解釈が深まりそうです。

 

 

 

夕焼け小焼け、今日は何をしようか

口ずさむ僕らはまだ夢の中がいいのさ

雨上がりの空を見て誰かがこう言うのさ

ほら綺麗だね 

 

「夢の中がいいのさ」=まだ大人に憧れているままでいたい、子どものままでありたいという心の反影でしょう。

夕立(=思春期の葛藤)が去ったあとの「雨上がりの空」は晴れ晴れとして爽快です。

そんな空に対する「ほら綺麗だね」は、大人になることを肯定してくれるような、そっと背中を押してくれるようなささやきですね。

 

 

 

おわりに

ここまでお読みくださった方、ありがとうございます。

 

「また明日」は、子どもと大人の狭間で揺れる少年少女を描いた歌でした。

 

季節や時間は本人の意思とはおよそ無関係に移り変わっていきます。

仲間との「また明日」を重ねるうちに季節が巡り、だんだんと大人へ近づいていく。

その中で、子どもでいられる時間のかけがえのなさを知っていくのでしょう。

 

解釈をしてみて感じましたが、「また明日」はヒョイットヒョウイーン編と続けて聴いてはじめて完成のように思います。

いつかドラマとも繋げながらより深く考えてみたいですね。

 

では、機会があればまた。